地獄の一丁目余話〜サヨナラ、夜会巻き |
鏡の中にはくたびれきった年増女の顔があった。何か物問いたげに、こちらを見つめている。 「本当にいいんですか?」 すでに客の身体にケープを巻き、バリカンまで握っているのに、女性の理髪師は愚図愚図とためらっている。 その女性理髪師の若さと美しさに、飯島淑恵(いいじま・としえ)は言いようのない嫉妬をおぼえた。これから、この女によって、三十年以上慈しんできた黒髪を断たれるのだ、と思うと例えようのない屈辱をおぼえた。 しかし、もうとうに彼女には、 シュクケイ という法名が与えられている。 明日にはG学院に入門することも決まっている。 G学院は僧尼を育成するための修行道場である。 荒修行で音に聞こえたその学院の門を叩く者は、一人の例外もなく剃髪するのが規則だった。 だから淑恵も、これまでずっと大切に伸ばしてきた髪を、本日この場で切らねばならぬ。 ――なんで・・・なんで、こんなことに・・・ 淑恵は唇を噛む。 淑恵は大きな寺の娘だった。 一度は他家に縁付いたが、結婚生活は二年足らずで破綻した。 実家に出戻った淑恵はふたたび結婚せず、かといって働きもせず、親の脛を齧って、遊び呆けていた。 高価なブランド物の服や装飾品を身につけ、長く美しい髪を夜会巻きにしていた。 「夜会巻きの淑恵」 と人は彼女のことを呼んだ。 ブランド服に包まれた淑恵の熟れきった肉体を求めて、何人もの男が寺に忍んできた。淑恵は器量こそ中の下くらいだったが、澱んだ色香があり、男が付け入る隙を常に感じさせているところがあった。 淑恵は忍んでくる男たちを、見境なく受け入れた。毎晩、長い髪を振り乱して、痴戯に耽っていた。 自慢のロングヘアーを結い上げ、服やアクセサリーで身を飾り立て、地元を闊歩する淑恵に、村人たちは、 「“夜会巻きの淑恵”が行くよ」 と袖を引き合って噂した。 特に女たちは、 「あの色キ○ガイが」 「大して美人でもないクセにさ」 と敵意と嫌悪に満ちた視線を淑恵に向けた。 そうした悪評をよそに、淑恵は親の金で放蕩生活を続けていた。悦楽に溺れた。 だが、盛者必衰、そんな淑恵にも凋落のときは来た。 少々調子に乗りすぎた。 十六歳の少年と寝てしまったのだ。 性に興味を持ちはじめた少年は、盛りのついた猫のように、淑恵の許に寄ってきた。 淑恵は「童貞を食べる」という誘惑に勝てず、少年に女体を教えた。 このことが少年の自慢話から外に漏れ、村落を揺るがせる騒動になってしまった。 少年の家は淑恵の寺の檀家だった。かねてから淑恵のことを快く思っていなかった少年の家では、警察に訴える!と息巻いた。 さすがの淑恵もあわてた。 檀家衆は結託して、まずは淑恵の父である和尚を責めたてた。 檀家衆の中には、現住職を寺から追い出して新たな住職を迎え入れようと「クーデター」を目論む者も何人かいたらしい。 淑恵の父は窮した。 淑恵も、 「このたびは申し訳ありませんでした」 とほとんど土下座するように、檀家連に頭を下げ、詫びた。 謝罪は難航した。 とうとう窮余の策として、 淑恵は反省のため、出家する 尼になって男を断ち、寺のために働く という提案が住職側からなされた。 淑恵も泣く泣く同意した。寺を出て一人で生活していく自信も能力もなかった。「愛人」に寄生しようとも考えたのだが、少年の一件で淑恵が糾弾されて以来、男たちは潮がひくように、彼女の許から消えていった。 「大丈夫だ」 父は娘に因果を含めた。 「尼になる、といっても書類上だけの話だ。髪を剃ることも、修行する必要もない」 「なんだぁ〜」 淑恵は胸をなでおろした。 「心配して損したワ」 が、 「だったら――」 と檀家の一部(「クーデター派」)からも要求があった。 「お嬢さんが尼になるというのなら、G学院で修行してもらいたい」 と。 その厳しさから「地獄」と陰口を叩かれている学院での生活から、淑恵が脱落することを期待しているのだ。 住職は了承した。了承せざるを得なかった。断れば警察沙汰になる。 淑恵も真っ青な顔で震えながらうなずくしかなかった。 淑恵は流されるまま、修行尼の道に分け入ったのだった。 学院入りが近くなると、前より一層丹念に髪を梳った。 髪にブラシを通しながら、 ――切りたくない! と気が狂いそうなほどの拒絶感に襲われる。 三十年以上保ってきた髪。 月二回美容室に通って、何時間もケアしている髪。 その髪は艶やかで、掴むと弾力があり、女性としての淑恵の自尊心を満足させてくれた。 ――逃げたい! という衝動に襲われる。 しかし、今更髪以外の全てを捨てる度胸は、淑恵にはなかった。 ―― 一定期間辛抱すれば、自由になれる。髪だってまた伸ばせるわ。 と自分に言い聞かせる。 だが、なかなか思い切れず、有髪のまま、ズルズルと日を過ごしてしまう。こんな自分の中の女としての執着が、疎ましくもあった。 そして、ついにG学院に向け出発する日になってしまった。 今日、G学院があるY山の麓の町に行き、一泊し、明日、山に入る。 初めて袖を通したG学院の作務衣に違和感をおぼえつつも、列車に揺られていた。 Y山麓のホテルに着くと、 ――よし! 淑恵は覚悟を決め、宿を出た。 いよいよ髪を切らねばならない。 町を歩く。床屋をさがす。 夜会巻きの髪に手をやる。剃りたくはない! 自分の内なるオンナが身をよじって、剃髪を拒否している。数多の男女に「綺麗だね」と賞賛されてきた髪だ。ずっと手入れを怠らずにきた大事な髪だ。 その髪を、今日、一本残らず剃り落とさねばならぬ。嫌だ! 嫌だ! そんな淑恵の迷妄を嘲笑うように、赤青白のサインポールが目の前に出現した。 床屋は書店と精肉店の間で、こぢんまりと営業していた。 淑恵はしばらく立ちすくみ、迷っていたが、いつまでもこうしているわけにはいかない。 ――仕方ない! 意を決し、床屋の扉を押した。 生まれて初めて押す床屋の扉の重さが、考え直すなら今のうちだよ、と自分をそそのかしているように思われた。 カランコロン とドアベルが鳴って、ビクッとなる。 安っぽいヘアトニックの匂いが、ツンと鼻につく。いかにも田舎町の場末の床屋だった。 淑恵の他に客はいない。 「いらっしゃいませ」 二十代くらいの美しい顔だちの理髪師は、滅多にいないであろう成人の女性客に驚いた様子だったが、それでも、 「どうぞ、こちらへ」 と淑恵をカット台に座らせた。 「今日はどう致しましょう?」 「剃髪、して欲しいの」 という注文に、 「剃髪、ですか?」 女性理髪師はおびえたように確かめた。 「ええ」 「お客さん、もしかしてG学院の?」 Y山の麓の床屋だけに、すぐに事情を察したらしい。 「そう、明日入院するのよ」 「本当に剃っちゃっていいんですか?」 と何度も念を押された。 不思議なもので、いいんですか?と確認されるたび、淑恵の決意は固くなっていった。 「ええ、ひと思いにやって頂戴」 そう言って、自らバレッタを外し、夜会巻きを解いた。 しかし、理髪師が持ち出した電気バリカンを見たら、さすがに心が動揺した。身体が微かに震えた。 けれど、もう遅い。 ――南無三! 腹を括り、理髪師の最後の確認にもうなずいてみせた。 「わかりました」 理髪師は了承した。そして、霧吹きで淑恵の髪を湿しはじめる。そして、コームで髪を梳き、水分を髪全体に行き渡らせた。 ヴイイーン 聞き慣れない機械音が後ろで鳴り響いた。電気バリカンだ。 理髪師の顔に似合わない太い指が、淑恵の前髪をまさぐる。前髪が持ち上げられ、のぞいた額の左の生え際に、電気バリカンがあてられる。 ヴィイイーン ヴイイィーン バリカンが前髪を、一気に頭頂まで押し運んだ。ついさっきまで、「本当にいいんですか?」と怖気づいていた人物とは思えないほど、手際よく、事務的な刈りようだった。 ヴイイィィン ヴイーン バサッ バサッ まず前頭部の髪がなくなる。 けして器量よしとはいえぬ中年女の顔面が、剥き出しになる。 ――あら? あら? 淑恵はあまりにぶっきらぼうな電気バリカンの仕事ぶりに、戸惑いを隠せないでいる。髪(とメイク)がなくなったせいで、顔に浮き出る心の動きが直に、目に飛び込んできてしまう。 電気バリカンが前髪を、運び去っていく。頭皮に、ジリジリ、と振動が伝わる。 美容師は別人のように大胆に、自分よりずっと年上の女性客の頭に、バリカンを走らせる。 「頭が軽くなりますよ」 と笑みすら浮かべ、困惑している淑恵を慰めた。 ヴイイィーン ヴィィイーン バサッ、 バサッ、 バサッ、 水分をたっぷりと吸った黒髪が、ケープに落ちた。 淑恵は思わず目を閉じた。 月代のように頭を剃られた自分の姿が、不様で醜悪に見えてならなかったからだ。 しかし、 「よく見なさい」 理髪師は意地悪く耳元で囁いた。 「現実を直視しなきゃダメよ」 いつしか口の利き方もぞんざいになっていた。 「お父さんがG学院に入る尼さんの頭、何度か剃ってたけど、アタシは初めてなんだよね。一度これくらい長い髪を一気に坊主頭に剃りあげたら、さぞ胸がスーッとするだろうなァ、と思ってたけど、確かに爽快だね♪」 小娘に嘲弄され、淑恵はミジメな気持ちでいっぱいだった。 ヴィイイーン ヴィイィィン 側頭部にもバリカンがあてられる。 バババアァ、と髪が刈り剥がされる。小刻みに震える二枚の刃の動きに合わせ、髪の毛が浮き上がり、グニャリ、と折れ曲がり、力尽きたように頭部から離れ、 バサッ、 バサッ、 と墨汁をぶちまけたかが如く、ケープに、床に、落ち散らばっていく。 未知の機械のバイブレーションは、後頭部に達する。バイブレーションは若干の熱を伴う。 理髪師はバックの髪を指でひっかけて持ち上げると、根元からバリカンで削いでいった。 バリカンの刃が帯びた熱は、髪と頭皮の間を挟んで、上へ上へと伝っていく。その温かさが通り抜けたあとに、スゥッ、と涼しさを、いや、寒さを感じる。 ヴィイイン、ヴイィィン ヴイーン、ヴィィン 電気バリカンは「美食」を愉しむように、モーター音をはじけさせる。うなじから頭頂付近まで、何度も何度も上昇運動を繰り返す。 淑恵はひきつった顔で、丸まっていく頭部を、鏡越し、見据えている。 「お地蔵様みたいだねえ」 理髪師がハシャぐ。 ――クッ・・・ できることなら、自分と理髪師が入れ替わって、自分がこの小娘の髪を丸坊主に刈ってやりたい。忸怩たる気持ちでそんなことを考える。 バリカンが最後の一房を刈り落とした。 バサァッ! そして、刈り残しのないよう念入りに、バリカンは「掃討戦」を遂行する。 かくして、「夜会巻きの淑恵」の髪は、ミリ単位に縮められたのだった。 その丸刈り頭も容赦なく、剃刀で剃りあげられる。 剃刀は左右に、上下に、淑恵の頭をスライドして、30分ほどかかって、淑恵を修行僧へと変貌させていった。もはや、シャンプーもリンスも、スタイリング剤も、マッサージもパックも、アクセサリーも、美容院も無用のヘアースタイルになっていく。 薄緑色の頭皮が完全に露出した。 スキンヘッドをジャブジャブと洗われ、キュッキュッとふきあげられた。 「可愛くなったわね」 と理髪師は淑恵の剃髪頭をペチペチと叩きながら、愉快そうに含み笑った。淑恵は鏡の向こうの僧形を、憮然と見つめるのみだった。 カット料金は3800円。 「得度祝いよ、3500円でいいわ」 と恩着せがましく言う理髪師に、 「いえ、結構です」 と定額支払った。淑恵なりの意地だった。 店を出る。 春風が寒々とした頭を吹き抜ける。 「ヘックション!」 思わずクシャミ。 坊主頭をしみじみと撫でさすり、 ――こうなっちゃ、やるしかねえか。 心の中、蓮っ葉に呟いた。 以後の淑恵について、点描風に述べる。 ◎淑恵はG学院に入学した。 ◎若い僧尼の卵に混じって、シゴきにシゴかれた。 ◎修行生活はお嬢様育ちの淑恵にとって、価値観の転倒の連続だった。 ◎生まれて初めてビンタやゲンコツを経験した。 ◎髪は休まず伸びるので、持ち込んだ五枚刃のシックで日々、頭の手入れをしなければならなかった。 ◎自らの頭にシックをあてながら、「ちょっと前までは、こんなことしてるなんて思いもしなかったな」と我が身の変転に呆然とすることもあった。 ◎絵に描いたような劣等生の淑恵だったが、同室の鞍馬さん(♀)達に随分とフォローしてもらい、「仲間っていいなあ」と人生で初めて実感した。 ◎来栖七海や高杉徳子といったずっと年下の尼僧候補生とも仲良くなり、互いに励まし合い、苦行をひとつひとつ乗り越えていった。 ◎淑恵はたくましく成長した。 ◎いつしか七歳年下の或る男僧と「良い仲」になった。 ◎今度の恋は真剣なものだった。 ◎二人の恋を修行仲間も応援してくれた。 ◎学院を卒業して間もなく、淑恵はその僧侶と再婚した。 ◎二人で淑恵の実家の寺を継いで、二人三脚で奮闘した。 ◎「夜会巻きの淑恵」と陰口をきく村人は、もはやいなくなった。 ◎子供が生まれた。男の子だった。 ◎息子も立派に成長して、父母と同じG学院を卒業し、僧侶として頑張っている。 ◎最近、孫が生まれた。 ◎めでたし、めでたし。 (了) あとがき 気持ちよく書けました〜(^^) まあ、れいによって「遊び人の寺娘」がヒロインです(またかよ!)。 十代の頃、なんとなく描いた一枚の落書きを元にしています。 長い髪の大して美人でもない年増の女性が、若くて綺麗な女床屋さんに坊主にされるというイラストでした。 以前にも述べましたが、「酸いも甘いも?み分けた熟女だけど、床屋もバリカンも生まれて初めて」という「高齢バリカン処女」に萌えます。しかも、刈り手は刈られる側より若くて美人て、なんか興奮します(笑) 今後ともこだわっていきたいテーマです。>「高齢バリカン処女」 皆様、楽しんで頂けましたか? 楽しんで頂ければ嬉しいです♪ 最後までお読み下さり、感謝感謝です(^^) |